旅の記録と記憶、

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四国地方・高知県; 土佐高知 「牧野富太郎」

  


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四国地方高知県; 土佐高知 「牧野富太郎 、












牧野富太郎植物園と記念館  (Wik)






高知県の偉人の一人・牧野富太郎
五台山の東側に牧野富太郎植物園と記念館がある


『 草を褥(しとね)に 木の根を枕 花と恋して 九十年 』

高知県の偉人は?」と尋ねられたならば、土佐の人は、迷わず牧野富太郎博士の名前をあげるという。
牧野富太郎」は、著名な植物学者で知られる。 


私は生まれながら草木が好きである。何故に好きになったという動機は何にももない。5,6歳の時から町の上の山へ行き、草木を相手に遊ぶのが一番楽しかった。」幼少の頃より病弱で、ひとり動植物に親しんだという。



富太郎は、文久2年(1862)4月,高知県高岡郡佐川町高知市佐川町)に生まれている。 
小学校を中退し、家の資産を食いつぶして植物の採集と分類に没頭、財産を使い果たしたあとも、貧困に苦しみながら研究を続けた。 
そのため、独学・苦学の研究者として有名である。
上京して東京帝国大学理学部植物学教室に出入りを許され、谷田部良吉教授(明治時代の植物学者)らもと接している。



植物研究のため実家の財産も使い果たし、さらに妻が経営する料亭「いまむら」の収益もつぎ込んだ。 
その料亭の件や、当時の大学の権威を無視した、「植物図鑑」等の出版が元で大学を追われたこともある。

しかし、彼自身、名誉とか権威という自己欲には全く無頓着で、逆に、当時の帝大教授たちや学界の権威といったものの「愚かさ」を浮き彫りにさせたともいう。


『 何よりも 貴き宝 もつ身には 
富みも誉れも 願はざりけり
 』


この時期、妻の壽衛(スエ)が54歳の若さで死去している。

『 朝な夕なに 草木を友にすれば さびしいひまがない 』



仙台にて新種の「ササ」を発見、翌年、ササに妻の名を入れた「スエコザサ」と命名している。


牧野富太郎は、植物の種類に精通し鑑定の的確なことでは他人の追随を許さず、日本の本草学を植物分類学へと転換した第一人者である。

その反面、近代生物学の理論的な面はほとんど理解しなかったという。
主著(1908年)は何度か改訂改題を重ね、現在は『原色牧野植物大図鑑』として刊行されている。

1
948年、86歳の時、皇居を参内し天皇陛下に植物学を講義されている。 

日本学士院会員(1950年)、文化功労者(1951年)、東京都名誉都民(1953年)などに選ばれる。1957年(昭和32年)1月18日永眠、 没後、文化勲章を授与される。 

「日本の植物学の父」と呼ばれる牧野富太郎の生誕日(4月24日)を記念し,この日を「植物学の日」としている。


次回は、土佐の高知の「はりまや橋

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