旅の記録と記憶、

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四国の旅・愛媛県; 伊予松山 「野球王国の激戦、松商対三沢」




 四国の旅・愛媛県; 伊予松山 「野球王国の激戦、松商対三沢」  ,





「野球王国の激戦、松商対三沢」













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【決勝】

松山商(北四国)j三沢(北奥羽)
三 沢 000000000000000000
松山商 000000000000000000

(延長十八回=大会規定により引き分け再試合)
松山商)井上―大森
(三沢)太田―小比類巻


【再試合・決 勝】

松山商(北四国)―三沢(北奥羽)
松山商 200002000 4
三 沢 100000100 2

松山商)井上、中村、井上、中村―大森
(三沢)太田―小比類巻  




優勝経験が豊富な甲子園常連の伝統校と、本州最北端の文字どおりの田舎チーム。 
戦前からこのような試合展開を予想した人がいただろうか。 松商といえば、全国2,500余校の野球部が目標とするには申し分のない、日本高野連も太鼓判を押す模範校である。 
一方、青森県東方・田舎の都市の代表・三沢高校は、高校野球不毛の地として定着していた。陸奥から突然変異的に現れたポッと出の無名チーム、ハナから勝負にならないだろうと思う人がいても無理はない。

投手は、松商・井上明、三沢・大田幸司。 
試合は両投手とも好投して0対0のまま譲らず、遂に延長15回を迎える。 松商は、無得点で、その裏、三沢の攻撃である。 今まさに、この田舎チームは伝統的な日本野球そのものみたいな松山商業に対してとんでもないことをしでかそうとしていた。 それは、陸奥(みちのく)の人々の誰もが見た「全国高校野球の頂点」という夢に、史上最も近づいた瞬間であった。
先ず、5番菊池からの攻撃。粘った菊池が5球目を左前に運んで出塁。 6番高田は2球目を三塁前にバント、三塁手谷岡が猛然とダッシュしてくる、これを名手谷岡がジャックルして一塁も二塁もオールセーフだ!両軍を通じてこの試合初めてのエラーが、何と鉄壁の守りを誇る松山商業に出て、無死一二塁である。 三沢高校はサヨナラの走者を得点圏(2塁上)に置いてなおノーアウト。 7番谷川は、プレッシャーの中で初球のバントを失敗し、続く2球目を投手前へバント。 井上が猛ダッシュして一塁に送球、アウトで見事送りバントが成功・・!、松山商業は1死二三塁という重大なピンチに立たされた。 8番滝上、9番立花は今日ノーヒットで当たりが出ていないのでスクイズも十分考えられる。 球場全体が異様なムードに包まれる中、滝上への初球、井上は外角に外してボール。 松山商業の一色監督はバッテリーに敬遠策を指示したようで、滝上は敬遠の四球を選ぶ、これで1死満塁・・!、9番立花が打席に入る。 井上-大森バッテリーはスクイズを警戒しながら、立花への初球、さらに2球目も、外し気味に流れる外角のカーブで0-2。 三塁側アルプスの三沢高校応援団は大歓声だ。 井上は暫し間をおいて、立花に対してカーブを続けた0-2からの3球目は直球、コースは決まらずストライクを取りに行った球が内角高めに外れるボールだ。

その瞬間、地鳴りのような歓声が上がった。1死満塁、カウントは0-3!大変なことになった。井上が絶体絶命の危機に立たされ、3球続けてストライクを投げないと押し出し!無常にもこの試合は終了し、陸奥の地に初めて深紅の大優勝旗が渡る、その瞬間が迫っているのである。 
小生もこの瞬間を固唾お呑み、手に汗を滲ませながら食い入っていた、気がつくと、TVの前は初め数人であったが、いつの間にか黒山になっている。公民館の職員も、はたまた近所の勤め人も、一時仕事を放り投げて、この場所に詰め掛けたのだろう。
小生も東北出身(福島県いわき市)のはしくれであり、深紅の優勝旗白河の関を越えることは、東北、北海道人にとって永年の悲願であった。今だから書けるが、小生の出身母校である磐城高校は、この年の来々年の昭和46年、第53回夏季大会の決勝戦で神奈川県・桐蔭学園に1対0で敗れ、悔しくも、惜しくも優勝を逃しているのである。その後も、宮城の仙台育英東北高校が夏の決勝戦に臨んだが、いずれも敗退している。

さて、こうなった以上、決着はついただろう、この様子を見守る誰もが、そう信じたに違いない。 どうする!井上・・!!、 後日談だが、この時、松商ナインはカウントが0-3になった時点で負けを覚悟したという、しかし井上は違ったらしい。 4球目、渾身で投げた球は真ん中低めのストライクで1-3。 問題の5球目は更にドロンとした低めの真ん中である、この瞬間、我々傍(はた)では、「よし、決まった」、と思ったに違いない。 打席の立花も、背番号10の主将で三塁コーチャーをしていた河村も低いと思ったはずだ。 「やった!」三沢ベンチに座っていた太田が腰を浮かせた次の瞬間、ひと呼吸おいて郷司球審が右手を上げてストライク・・!、球場内の至るところから「アーッ!エーッ」」という歓声とも悲鳴とも聞こえる声が上がった。 この時、試合中だというのに、この判定に対する抗議の電話が全国から大会本部に殺到したという。

以下、攻守交替するまで、1球、1投、1打すさまじいドラマが連続するが、ここでは割愛する。 松山商業は絶体絶命のピンチを井上の決死の粘投で奇跡的に切り抜け、井上投手にとっては、まさに15回裏・奇跡の25球であった。

試合はその後、両者得点無く延長18回終了で翌日再試合になり、結局、松商が4対2で勝ち、優勝しているのは周知である。
次には平成8年・第78回夏季・決勝戦で松商は熊本工と対戦、延長11回、やはり奇跡的とも言える粘りの試合で全国優勝をものにしているのである。


  
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松山商 000000000000000000

(延長十八回=大会規定により引き分け再試合)
松山商)井上―大森
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【再試合・決 勝】

松山商(北四国)―三沢(北奥羽)
松山商 200002000 4
三 沢 100000100 2

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優勝経験が豊富な甲子園常連の伝統校と、本州最北端の文字どおりの田舎チーム。 
戦前からこのような試合展開を予想した人がいただろうか。 松商といえば、全国2,500余校の野球部が目標とするには申し分のない、日本高野連も太鼓判を押す模範校である。 
一方、青森県東方・田舎の都市の代表・三沢高校は、高校野球不毛の地として定着していた。陸奥から突然変異的に現れたポッと出の無名チーム、ハナから勝負にならないだろうと思う人がいても無理はない。

投手は、松商・井上明、三沢・大田幸司。 
試合は両投手とも好投して0対0のまま譲らず、遂に延長15回を迎える。 松商は、無得点で、その裏、三沢の攻撃である。 今まさに、この田舎チームは伝統的な日本野球そのものみたいな松山商業に対してとんでもないことをしでかそうとしていた。 それは、陸奥(みちのく)の人々の誰もが見た「全国高校野球の頂点」という夢に、史上最も近づいた瞬間であった。
先ず、5番菊池からの攻撃。粘った菊池が5球目を左前に運んで出塁。 6番高田は2球目を三塁前にバント、三塁手谷岡が猛然とダッシュしてくる、これを名手谷岡がジャックルして一塁も二塁もオールセーフだ!両軍を通じてこの試合初めてのエラーが、何と鉄壁の守りを誇る松山商業に出て、無死一二塁である。 三沢高校はサヨナラの走者を得点圏(2塁上)に置いてなおノーアウト。 7番谷川は、プレッシャーの中で初球のバントを失敗し、続く2球目を投手前へバント。 井上が猛ダッシュして一塁に送球、アウトで見事送りバントが成功・・!、松山商業は1死二三塁という重大なピンチに立たされた。 8番滝上、9番立花は今日ノーヒットで当たりが出ていないのでスクイズも十分考えられる。 球場全体が異様なムードに包まれる中、滝上への初球、井上は外角に外してボール。 松山商業の一色監督はバッテリーに敬遠策を指示したようで、滝上は敬遠の四球を選ぶ、これで1死満塁・・!、9番立花が打席に入る。 井上-大森バッテリーはスクイズを警戒しながら、立花への初球、さらに2球目も、外し気味に流れる外角のカーブで0-2。 三塁側アルプスの三沢高校応援団は大歓声だ。 井上は暫し間をおいて、立花に対してカーブを続けた0-2からの3球目は直球、コースは決まらずストライクを取りに行った球が内角高めに外れるボールだ。

その瞬間、地鳴りのような歓声が上がった。1死満塁、カウントは0-3!大変なことになった。井上が絶体絶命の危機に立たされ、3球続けてストライクを投げないと押し出し!無常にもこの試合は終了し、陸奥の地に初めて深紅の大優勝旗が渡る、その瞬間が迫っているのである。 
小生もこの瞬間を固唾お呑み、手に汗を滲ませながら食い入っていた、気がつくと、TVの前は初め数人であったが、いつの間にか黒山になっている。公民館の職員も、はたまた近所の勤め人も、一時仕事を放り投げて、この場所に詰め掛けたのだろう。
小生も東北出身(福島県いわき市)のはしくれであり、深紅の優勝旗白河の関を越えることは、東北、北海道人にとって永年の悲願であった。今だから書けるが、小生の出身母校である磐城高校は、この年の来々年の昭和46年、第53回夏季大会の決勝戦で神奈川県・桐蔭学園に1対0で敗れ、悔しくも、惜しくも優勝を逃しているのである。その後も、宮城の仙台育英東北高校が夏の決勝戦に臨んだが、いずれも敗退している。

さて、こうなった以上、決着はついただろう、この様子を見守る誰もが、そう信じたに違いない。 どうする!井上・・!!、 後日談だが、この時、松商ナインはカウントが0-3になった時点で負けを覚悟したという、しかし井上は違ったらしい。 4球目、渾身で投げた球は真ん中低めのストライクで1-3。 問題の5球目は更にドロンとした低めの真ん中である、この瞬間、我々傍(はた)では、「よし、決まった」、と思ったに違いない。 打席の立花も、背番号10の主将で三塁コーチャーをしていた河村も低いと思ったはずだ。 「やった!」三沢ベンチに座っていた太田が腰を浮かせた次の瞬間、ひと呼吸おいて郷司球審が右手を上げてストライク・・!、球場内の至るところから「アーッ!エーッ」」という歓声とも悲鳴とも聞こえる声が上がった。 この時、試合中だというのに、この判定に対する抗議の電話が全国から大会本部に殺到したという。

以下、攻守交替するまで、1球、1投、1打すさまじいドラマが連続するが、ここでは割愛する。 松山商業は絶体絶命のピンチを井上の決死の粘投で奇跡的に切り抜け、井上投手にとっては、まさに15回裏・奇跡の25球であった。

試合はその後、両者得点無く延長18回終了で翌日再試合になり、結局、松商が4対2で勝ち、優勝しているのは周知である。
次には平成8年・第78回夏季・決勝戦で松商は熊本工と対戦、延長11回、やはり奇跡的とも言える粘りの試合で全国優勝をものにしているのである。


  
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