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旅の記録と記憶、

日本国内、東西南北、処々方々を巡る、

新・日本紀行(104)九州 「九つの国」


九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです。)





 新・日本紀行(104)九州 「九つの国」   、












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意外と知られていない九州事情は、その昔は九ヶ国に分かれていた、それは

国道2号線で本来「下関」を目指し、周遊観光するつもりであったが時間的に余裕が有ったので一気に九州を目指すことにした。 下関は帰路に立ち寄ることにしよう。

中国道の小月I・C から関門橋を渡るが、その前に関門橋の展望地らしい「塩の浦P・A」にて小休止してみた。 

関門鉄橋のすぐ下に広い展望ゾーンが広がって、関門海峡、巨大な関門橋を一望出来る。 
かなりの迫力と圧巻であるが、本州・四国の架橋を見つめてきたせいか意外と短小に感じたのは小生の偏見か・・!。

橋は今から30年前(昭和48年)に開通した全長1068mの吊り橋である。海峡は、かの有名な「壇ノ浦」や「決闘・巌流島」更に、江戸末期の馬関戦争など歴史的にも特筆される地であるが、これらに関しては後日記載することにする。

橋の右手に門司港が鮮明であり、それにしても関門海峡は、大小船舶の往来が盛んなようである。  

さて、関門海峡を渡る・・、
思えば小生六十有余年、物心就いて脚の行くまま、気のゆくまま各地を巡ってきたが、この地「九州」、九州七県は始めての地であった。 

期待を込めて九州へ向かう。



ところで、四国は「身一つにして面四つ」と言われたが、同じく数字の付く「九州」は、名の如く九つの国の成立によって九州の呼称が生まれた。 

即ち筑前筑後肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩の九ヶ国に分かれていたことから。
そして、日本列島で、いち早く国々が成立したのは「九州」であり、その後、国々の名が付けられたのは律令国家が成立した時期(7世紀後半から8世紀前半頃)と言われる。 
その間の平安時代から明治初期になって廃藩置県が決行せれるまでの凡そ1000年の長期にわたって変更がなかった。


律令(奈良期後半に定められた政令)において、諸国をまず「五畿七道」(ごきひちどう)に分け、九州は「西海道」と称し、個々の国についての総称を九国、中国(大陸、当時は唐)の地方単位である「」になぞらえて九州と呼んだ。 
これはあくまでも慣用表現であるという。

因みに、「五畿七道」の「五畿」とは、大和、山城、河内、和泉、摂津のことで、都・大和を中心とした畿内近畿地方)の五つの国の事である。 

「七道」とは、東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海(四国)そして西海(九州)の七つの官道と、これにつらなる国の領域を表している。 

特に、都より山陽道西海道を経て太宰府までつながる道を大路(主官道)と称し、他に東海道東山道等を中路、その他の道として太宰府より九州各地へと向かう西海道小路と呼んでいた。
当時は道を軸として国名が付されていったのである。


律令(りつりょう)とは、大宝律令、その後の養老律令のことで、東アジア(中国の隋、唐の時代)でみられる法体系のことであり、「」は刑罰法令、「」は律以外の法令、主に行政法に相当するもので奈良末期の西暦701年に制定され、この時、合わせて倭国から「日本」へと国号も定めている。

尚、古代、大和朝廷の時代には、九州は「筑紫(ちくし)の国」、「豊(とよ)の国」、「日向(ひゅうが)の国」と称していた。
それが律令によって細分化されて、「筑紫の国」が「筑前:ちくぜん」「筑後:ちくご」に、「豊の国」が「豊前:ぶぜん」「豊後:ぶんご」に、「肥の国」が[肥前:ひぜん」「肥後:ひご」に、「日向の国」が「日向:ひゅうが」「薩摩:さつま」「大隅おおすみ」の九つに分けられて、筑前にあった「太宰府」が九州全域を統括する場所として九州が完成している。

大君の遠の朝廷」と讃えられた「大宰府」が、大和朝廷期に「筑紫大宰・筑紫の国」として置かれた。
府の庁舎が置かれたところを大宰府政庁といい、「太宰」とは、オオミコトモチと称して最高長官を表す。

当時、中国(唐)、朝鮮半島百済新羅高句麗)との交易があり、当初は外交府としてあったが、白村江での敗戦(はくすきのえ:倭国=日本、百済の連合と唐、新羅連合との戦い)の後、外敵の上陸・南進を防ぐための対外防衛拠点としても存在した。 

同時に大宰府西海道(九州)諸国を統括する内政の府でもあり、八世紀頃には西国の政治・経済・文化・宗教の中心として都市的な繁栄を見るようになる。


ところで、律令制により「筑紫(ちくし)の国」が分割されて、筑前筑後の国になったが、この「筑紫」は「つくし」と読むのか「ちくし」と読むのか、という論点があるようだ。
我々、外野の者、関東人は近くに「筑波(つくば)」もあり、筑紫は「つくし」と呼ぶのが一般的のようだが、地元では「ちくし」と呼ぶようである。近現代の福岡県の地名としての「筑紫」は、「ちくし」と読むのが普通であるし、公式の読み方としても多く採用されているようである。
しかし古代、この地域を指していた“歴史的”な地名としての「筑紫」は、「つくし」と読む習慣もあるとか・・?。


次回は、その「筑紫の国」へ向う

  
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