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旅の記録と記憶、

日本国内、東西南北、処々方々を巡る、

平成日本紀行(125)熊本 「熊本城」

九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)






『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/




 平成日本紀行(125)熊本 「熊本城」   、






熊本城;見学通用口




青空に映える「熊本城大天守閣」、向うの小天主は「飯田丸」




熊本城の「武者返し」と言われる城壁






「日本一周の旅の記録」へリンクします
 

熊本城は「武者返し」(石組み)で見れる防衛の為の城であった・・、

お城へ向かう・・、
肥後・熊本について、熊本県人の気質は「肥後もっこす」として知られる。 
頑固でへそ曲がり、反骨精神に溢れ、気性は荒いと言われる。 

海を隔てたお隣「肥前・長崎」は「ばってん」と一時、間をおくが、「肥後・熊本」は「そうに決まっちょる」と一刀両断、単刀直入であり好対照であるという。
よく言えば純粋で正義感があって意地を貫く。

意地は熊本気は薩摩」といい「武士の意地は、筑前豊前を合わせたるより上と知るべし」・・と江戸期のガイドブックにも記されているという。
反面、荒っぽいのは表面だけで、実は気が小さく強がりが多いというが・・?。


その肥後・熊本人の象徴、熊本城の天守が既に見えている。
案内に従って二の丸駐車場まで車を運んだ。 

正面に位置する「頬当御門」(ほほあてごもん)という箇所から然るべき入場料・入城料を払って歩を進める。入城門には厳しい(いかめしい)・・?武者姿の門番が大槍を持って直立不動で見張っている、「肥後もっこす」である。 
近ずくと中年のオジサンで、「ご苦労さん、(鎧を着けてるので)格好いいですね、でも暑いでしょう・・?」、
「はあ・・仕事ですたい・・」とニコニコ顔。 

正面に、既に石垣の上部に大天守の城郭が見えている。 
外周を囲う大石垣を通って、すぐに大天守、小天守の正面に出た。 
石垣上に聳える圧倒的な威容を誇る城郭で思わず息を呑む。

それにしても大規模な石垣の立ち上がりの曲線が美事である、「武者返し」という手法の石積みであるとか。 
天下一流と名を馳せたこの熊本城の石垣は、「清正流石組」と呼ばれ、独特の弧を描く扇の勾配をもつ。 

清正が近江の国から卒いてきた石工「穴太衆」が持つ特殊技能を駆使して造られたといわれ、下部は30度近い勾配が上に向かうに従って角度を高め天端では、ほぼ垂直にちかい絶壁になる。

城攻めにおいて攻め手は石垣からも攀じ登るが、この時始めは登りやすいが次第に勾配が急になってきて、終いには垂直になり落ちてしまうというわけである。これが“武者返し”と言われる由縁である。

本丸主城へ入城し、各種展示物を見物しながら天守閣へ昇る。
展示品は主に650年の歴史を誇る細川家伝来の所蔵品が多く、特に参勤交代用の御座船(藩主、貴人が乗る船)の船絵図は豪華である。 
天守閣の展望の間は城下熊本市街をはじめ遠く阿蘇の山並みが鮮明である。 
山の合間に風力発電機であろうか、一列縦隊になって山裾から上部へ延びている。すぐ眼前には本丸に並んで建つ小天主がまた良い。


日本三名城(姫路城、大阪城)の一つに数えられる熊本城は、天正16年(1588)、肥後半国の領主として熊本に本拠を置いた加藤清正によって築かれた。

築城は慶長6年(1601)に始まり、同12年(1607)に完成したといわれている。 
落成に際して、この地を隈元から「熊本」に改め、合わせて隈元城を「熊本城」とした。
城郭は周囲9km(築城当時)、広さ約98万平方メートルで、その中に天守3、櫓49、櫓門18、城門29を持つ豪壮雄大な構えである。 

この石垣にも観られるように、この城の特徴は「堅実な守り」に重点をおいた造りと言われ、このことは明治期の西南戦争でも証明された。 熊本城は城を甘く見ていた西郷軍の攻撃によく耐え、誰一人として城内に侵入することができなかったという。この戦いでは「武者返し」が大いに役立ったという。

ただ、西南戦争での50余日の籠城に耐え、不落の名城として真価を発揮したが、総攻撃の3日前に原因不明の火事により天守閣や本丸御殿など主要な建物を焼失したという。

往時の「本丸御殿」は藩主の居間、対面所と見られるが、特筆すべきは華美な障壁画や「昭君之間(しょうくんのま)、若松之間(わかまつのま)」など特別の間が在り、それに全国的にも類例の無い地下通路である「闇り通路(くらがりつうろ)」と呼ばれる特別な設えもあるという。
この本丸御殿や昭君の間は、城主の清正にも不釣り合いな程の相当な貴人を招き入れる格式の高い様式であり、清正よりも高貴な人・つまり豊臣秀頼のために造られたのではないかとも云われる。

関が原戦後、再び豊臣方と徳川方が戦った場合、豊臣家に絶対の忠誠を尽くす加藤清正は、豊臣秀頼をこの城に迎え入れ、徳川方と一戦交える覚悟だったとも言われている。
この本丸御殿は、現在数10億円をかけて修復中であり平成20年度あたりには、華美な障壁画や「昭君之間」などが一般公開されるという。


この城は清正亡き後、加藤家2代(44年)、細川家11代(239年)の居城となった。
明治10年(1877)の西南の役に際しては、薩軍を相手に50日余も籠城し、難攻不落の城として真価を発揮した。 

しかし薩軍総攻撃の2日前、原因不明の出火により天守閣など主要な建物を焼失。現在の天守閣は昭和35年(1960)、熊本市によって再建されたもの。 
中でも本丸南西に位置する飯田丸・五階櫓は、平成13年に復元が始まり、本年(平成17年)2月に完成、お披露目したばかりのピカピカの城郭である。

尚、熊本城は築城以来2007年で400年の節目を迎えるという。


次回は、善政の雄・「加藤氏と細川氏

  
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