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旅の記録と記憶、

日本国内、東西南北、処々方々を巡る、

平成日本紀行(146)鹿児島 「鹿児島市内」

九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)



『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/
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 平成日本紀行(146)鹿児島 「鹿児島市内」  ,








写真:市内目抜き通りにある鶴丸城址照国神社





「日本一周の旅の記録」へリンクします
 

市内・加治屋町界隈は歴史上まれにみる一角で、幕末から明治時代にかけて近代日本の創世に携わった多くの偉人たちが生まれ育ったエリアである・・、



再び、国道(R10)へ戻る、そのまま城山の麓を行くと、まるで歴史街道とも思える史跡や記念館、神社がずらっと並んでいる。 

薩摩義士碑、鶴丸城址(鹿児島城)、黎明館、私学校跡、西郷隆盛像、護国神社照国神社等々・・。


鶴丸城は「城をもって守りとせず、人をもって守りとなす」という兵学精神に基づいて築城された。 
この城は、一般に知られる戦闘に備えた高い石垣の上に、天守閣の聳える堅固な防備の城郭とは異なり、天守閣のない屋形造りの居館であった。 
関が原以降の江戸初期、島津家久が築城、幕末まで島津家の居城となっていた。


島津家は、鎌倉幕府の創立以来700年間変わることなくこの地を収めている。
藩内は鶴丸城に一極集中して藩経営を行うのではなく、その周囲に「(ふもと)」や「」といわれる武士集落を構成し、地域の行政を執り行わせるための外城(とじょう)制度というのを設けていた。 

薩摩藩は77万石といわれ、加賀藩102万石に次ぐ雄藩であったが米高に直すと37万石程度であったともいう。
また、総人口の4分の1が士族であり、この比率は全国平均の6倍にあたり財政的に非常に苦しかったという。 


その鶴丸城館は、数度の火災で焼失している。 
征韓論に破れて下野した西郷隆盛は、この焼け跡に「私学校」を設立した。 
それは薩摩王国の行政機関のようでもあり、軍事調練所でもあった。 現在は、西南戦争の弾痕が目立つ石垣と内堀が残っている。


市街通りの中心部といえる市立美術館のすぐそばに、樹木に囲まれて西郷銅像がスックと立つ・・!。 
台座とあわせると高さ8mの巨大銅像であり、軍服姿で凛々しく天を仰いでいる。 
顔の感じも上野の銅像に比べる服装も異なり毅然としていて、西南戦役時の緊張感と城山での最後の男の魂の覚悟が表情から読み取れる。


因みに東京上野のシンボル・西郷銅像は筒袖に兵児帯(へこおび)を締めた着流しで、犬を連れていることは周知である。 
銅像の作者は、詩人で彫刻家でもあった高村光太郎の父、高村光雲の作で明治31年12月竣工除幕した。 

こちらは、男の仕事をやり終えた満足気な表情であるが・・?、
除幕式に参列した夫人のイトさんは「全然似ていないし、うちの人はこんなみすぼらしい格好をしてなかった」と嘆き、二度と上京はしなかったともいう。 

西郷像は彰義隊のお墓に尻を向けて立っていて、彰義隊の怨霊、上野戦争の亡者が悪さをしないように、沈める為に建てられたという説もある。



国道10号線と3号線の境目の交差点には、広々とした境内に照国神社がある、島津斉彬を祭神としてまつる神社である。 
薩摩藩主28代・島津斉彬は僅か7年の藩主のあいだ、先にも記したが西洋文明の吸収に努めて工業を興し(集成館事業)、西郷隆盛大久保利通らを育て、近代日本の基礎を築いた名君である。 

境内には斉淋、久光、忠義三候の銅像が立っている。

更に、1km先、鹿児島中央駅前の、台風時の洪水でも有名になった「甲突川」(こうつきがわ)界隈は加治屋町といって、歴史上まれにみるユニークな一画である。 幕末から明治時代にかけて近代日本の創世に携わった多くの偉人たちが生まれ育ったエリアであり、 周辺は西郷隆盛大久保利通をはじめ、少し歩けば大山巌村田新八東郷平八郎など、余りにも有名な偉人たちの生誕の碑が残る一画なのである。

なぜ、このエリアから偉人たちが多く育ったのか・・? 
薩摩藩特有の外城と言われる一角の武士達は「郷士」と呼ばれ、西郷隆盛大久保利通は、たまたま同じ界隈に暮らし、お互いがいいライバルだったといえる。

西郷は島津斉彬に、また、大久保は島津久光に登用されたが、そんな二人の大先輩を慕って大山巌東郷平八郎など多くの偉人たちが次々と育っていったのである。 
人をもって城となす」半農半士の武士を住まわせ、それぞれの外城での郷中教育が徹底していたともいう。


ところで、城山山麓には薩摩藩にちなんだ史跡や神社が多く存在し、併せて神社仏閣といって、大抵の場合それらに伴った寺院が存在している訳だが、その寺院仏閣が見当たらない。 

調べてみたら一箇所在った。
JR線と国道10号が交差するところに、一寸モダンな「高野山最大乗院」という真言宗の寺が。 島津氏縁(ゆかり)の場所に建つ寺院として歴代の藩主の尊崇が厚い寺院であったが、しかし明治2年の廃仏毀釈の時、最初にターゲットとされ破壊された寺であり、現存するのは明治29年に創建したもので比較的新しいという。


ところで、仏教王国の日本は各地に名刹・古刹と呼ばれる寺院が残され、「京都八百八寺」と言う様に、異なる空間を散策できる楽しさがあり、昨今ブームの和辻哲郎五木寛之の《古寺巡礼》の世界などが体験できる。 

しかし、ここ薩摩の地、鹿児島県に関しては千数百年の時間を超えた静寂なる風情を味わえる寺院が皆無といっていいほどないという。 
特に仏教寺院に関してはこれが顕著だという。
今は「○○院跡」という碑や破壊をまぬがれた墓石や仁王像が微かにあるのみと。


明治維新の歴史の中の暗い一面として、「神仏分離」併せて「廃仏毀釈」の政策があり、全国に嵐のように飛び火した時である。 
薩摩の地では、顕著にその傷跡が各地に散見されるという。

薩摩での廃仏毀釈運動は、既に江戸期の末頃には始まっていたとされている。 
江戸期に林羅山などの朱子学(権力支配の正統性を説く)が盛んになり、元々、薩摩には薩南学派と呼ばれる筋金入りの朱子学の伝統があり、この思想が国学へ転向していく。 

国学は国体を維持する。 所謂、富国強兵が基本になっている教えであり、長い間の伝統で寺院を軽視する思想の土台が用意されていたのである。

幕末の薩摩藩にとって何よりも富国強兵が必要で、そのためには、寺院勢力からも経済的助成が必要になり、従って、いち早く神仏分離政策を推し進め、藩内の寺院の僧侶は兵に、梵鐘を徴発して武器製造に充当したとされる。 

名君の誉れ高い島津斉彬もその意志は受け継がれ、島津久光もその藩全体の意志を奉じる形で、神仏分離政策を推進していった。 

維新を迎えた薩摩では、新政府の財政難を支える意味からも、寺院の財産没収と僧侶の兵士への転職の一石二鳥政策が進められ、この結果として藩内の寺院1000程度が廃寺となり、3000人の僧侶が失職、結果として多くが軍人となり薩摩藩が得た財源は、寺領合わせると約10万石にも達した言われている。


次回、「鹿児島市国道58号線

  
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