旅の記録と記憶、

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平成日本紀行(186) 美保関 「美保関灯台」


  平成日本紀行(186) 美保関 「美保関灯台」    .




写真:雄大な展望台を持つ美保関の地蔵崎



美保関灯台




美保関の灯台へ向かう。
岬のほぼ突端辺りから斜面を登ると、良く整備されたさっぱりした園地があり地蔵崎園地とあった。 
海上交通の要衝であったこの地で、航海の安全を祈ったお地蔵様が岸壁や波打ち際に多数奉納されるようになったことから「お地蔵様がある岬」ということで中世以降から「地蔵崎」と呼ばれるようになったと言われる。 

ここからの眺望は素晴らしく、日本海の雄大な眺めが一望でき、はるか沖に「隠岐の島」が浮かぶ


更に、岬先端に灯台があった。 
外洋北部は複雑に入り組んだリアス式の断崖の景観が圧巻である。 
この先に、白亜洋風の石造りのガッシリした美保関灯台が海抜73mの岩上にあり、高さ14mで、中間に一周の展望デッキも付いている。 

明治31年(1898)に日本人技師の設計により、地蔵崎灯台として建設、後に美保関灯台と改めたとする。
灯台脇には、同様の建造物である屋敷がある、灯台守の宿舎を改造したレストラン兼売店の美保関灯台ビュッフェであった。

只今営業中とあったが、他に客は無いようで遠慮した。
遥かに見て取れる「隠岐の島」は後鳥羽上皇後醍醐天皇などが流された配流地として有名である。


問題の「竹島も、
島根半島から北東へ約65km、日本海に浮かぶ隠岐諸島」は大小180余りの島々から成り立ち、日韓で係争中の「竹島」も含む。 

奈良時代から平安初期にかけては、大陸との日本海外交の中継基地として大陸文化の伝来に大きな役割を果たした。 
中世以降は遠流の島と定められ多くの貴人、文化人が配流され彼らが伝えた都の文化は、時空を超え今なお伝統芸能や行事の中に確実に伝承されている。


尚、隠岐諸島竹島は次回、出雲の「国引き伝説」で・・、