旅の記録と記憶、

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平成日本紀行(197) 城崎 「城崎温泉」(2)

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平成日本紀行(197) 城崎 「城崎温泉」(2) .




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風流な大谿川を挟む温泉街界隈・・、




城崎温泉にて・・、

志賀直哉が、「城の崎にて」の冒頭に、「山の手線に跳ね飛ばされて怪我をした。 
その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた」と記している。 

著者自身、鉄道事故九死に一生を得た彼はその後、怪我の養生のために城崎温泉に滞在している。 そ
の時の体験が、小動物の死生観に重ね合わせて描いたとされる「城の崎にて」の短編である。 
末尾には、「生きている事と死んで了っている事と,それは両極ではなかった。
それ程に差はないような気がした。」と結んでいる。

“小動物の死生観て・・??”、
小動物も人間も、同じ地球上に生を受けた「物」として、生死の価値はあまり変わるものではない、というところか・・?。

志賀直哉(しが・なおや 1883-1949・宮城県石巻生まれ)が「城の崎にて」を書いたのは、ここにきてから東京へ戻った4年後のことであった。 
それだけに「城崎温泉」の印象が鮮烈だったのだろう。

大正2年志賀直哉は初めて城崎を訪れた。 
東京・山手線の電車にはねられて重傷を負いその後養生のために3週間滞在したという。



谷合いに、「くの字」にひらけた湯の町で、温泉に浸かり、ぶらりと町を歩く。
川沿いの柳が芽吹き、桜が花開く。 

夕刻ともなると和風木造の旅館街にぼんやりと灯が入り、外湯を巡る浴客たちの下駄の音がなつかしい。 
志賀直哉の定宿だった「三木屋」は、湯の町・城崎でも一段と奥まった大谿川(おおたにがわ)の畔、雰囲気漂う“木屋町通り”の一角に三階建ての純和風の建物である。 

かって、三木屋のご当主は町長もつとめたという。  
志賀直哉は生涯に十数回この地を訪れていて、「 温泉はよく澄んで湯治によく、周囲の山々は緑で美しい。おいしい日本海の魚を毎日食膳に出し、客を楽しませてくれる。 」と手記に記している。


小生は、1986年(昭和61年)子供及び両親を伴って、北陸、山陰を巡った際に城崎を訪れている。 
宿泊した旅館は当時NTTの保養所で「城崎荘」であったが、現在は、NTT民営化による合理化にともなって民間に譲渡されているようである。 
それでも城崎荘は、現在でも立派に営業をされているようで、場所は奇しくも三木屋の隣に位置しているようであった。 
当時は慌しい旅程であったが、この風流な温泉街の印象は今も残っている。
  


城崎の温泉街は大谿川の流れに沿って軒を連ねる。 
その町並みは木造建築の旅館がほとんどで落ち着いた本来の日本情緒を醸し出している。 
平安期・1300年の歴史に裏打ちされた格式を感じさせる日本でも数少ない温泉街であろう。

大谿川を中心に、約100軒の旅館や土産物屋、飲食店が並ぶ、これらは昭和初期の温泉街の情緒が今でも残っているのである。 
川には弁天橋、桃島橋、柳湯橋と名の付いた弓形の石橋がいくつも架けられ、両川端には柳の並木が一層、旅心を誘うのである。

頃合になると湯の町は華やいで、観光客や酔客が浴衣や丹前に着替え、各旅館には温泉浴場が有るにも関わらず、その風情に誘われるように外湯へと導かれるのである。 
浴衣がけに下駄履き姿の旅の客が外湯巡りにそぞろ歩く、カランコロンと下駄の響きも軽やかに外湯にくりだす光景は城崎独特の風情で哀愁さえ感じる。 

大谿川に架かる石造りの太鼓橋に目をやれば、浴衣を羽織って佇む若い女性の姿がボンボリの灯りに照らされて艶かしく、しなやかに垂れ下がるしだれ柳は湯の町の女性の色香を悩ましいほどに引き立てているのである。
中でも大谿川にかかる石造りの太鼓橋は、両岸のしだれ柳とともに城崎を形容するシンボルでもあろう。


次回も、更に「城崎温泉」