気ままに「神社」めぐり

いろいろなところの「神社」を巡っていると、其処からその地方の生活感や由緒、歴史などが観えてきますね、 (AIを使用しています)

敦賀 気比神宮 

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敦賀は若狭湾に突き出た敦賀半島の影響で、季節風の強まる冬でも日本海沿岸の中では比較的穏やかとされる。  古代より敦賀湾の静かな沿岸は天然の良港として栄え、又、近代以降は北陸と関西を結ぶ位置から鉄道や道路の要地ともなっている。 
気比の松原から東へ2km程度、そこは既に敦賀の市街地でもあり、その中心部に「気比神宮」が堂々と鎮座していた。 参道入り口には、高さ11mの朱色の大鳥居(重要文化財)が威風を放っている。 この鳥居は、奈良・春日大社の大鳥居、安芸の厳島神社の海上鳥居と共に日本三大木造大鳥居の一つに数えられるという。
主祭神は、伊奢沙別命(イザサワケノミコト、別名 気比大神、笥飯大神)、他に、相祭神として仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、日本武尊(仲哀天皇の父)、素佐之男命、玉姫尊(神功皇后の妹)、武内宿禰(タケウチノスクネ)と錚々たる著名な神々が祭れれている。 
日本武尊の子とされる仲哀天皇と神功皇后は夫婦であり、その子が応神天皇で親・子の関係にあり、共に九州・宇佐八幡宮の主祭神でもある。
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かつては北九州や出雲と並んで古代朝鮮との交通の要衝でもあり、古書には、『上古(じょうこ・むかしむかい、かなりの昔)における敦賀の港は三韓(古代朝鮮)交通の要地にして、三韓・任那人(みまな、にんな)等の多く此地に渡来し、敦賀付近の地に移住土着したる者少なからず。其族祖神を新羅神社として祭祀せるもの多く、信露貴神社亦共一に属す』とある。 
敦賀付近には新羅(シラギ)の宛字と思われる土地名や神社名が多いという。
例えば敦賀市の白木、神社名では信露貴彦(しろきひこ)神社・白城(しらき)神社・白鬚神社などがあるという。
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気比神宮は、社の縁起伝承によると仲哀天皇8年(伝説上の創建)に神功皇后の命によって創祀されてとあります。 ただ、歴史上の史実としては飛鳥時代の文武2年(702年)に社殿が造営されたと伝えられています。 この時から北陸道や日本海の海上交通の要地であるとして、北陸道の総鎮守・越前国一之宮として崇敬されてきたとされています。
また、気比神宮と三韓征伐については日本書紀などの伝承において伝えられていますが、祭神である仲哀天皇や神功皇后が戦勝の祈願と其れに伴う御神託の地として気比神宮とは深く結びついているとされています。 つまり三韓征伐を行うにあたり、気比大神(伊奢沙別命)へ祈願し、海神からの神託や秘宝を授かったとされています。
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因みに、三韓征伐とは3世紀に神功皇后が行ったとされる新羅出兵をさし、新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされる。 このため三韓征伐を「新羅征伐」と言う場合もあるとされる。 ただ、三韓征伐といわれるのは武器をもって戦をするという意味ではなくて、即ち、「日本海を越えた国家的な侵略」ではなくて、日本と半島の交易上の話し合いを「一寸強引に勧める」というとする見方もあるようです。 この時、神功皇后が帰国の間際に、応神天皇を身篭っていたともされている。 
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叉、日本書紀の神功皇后における記載の仕方では、中国の古書・「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用すると、江戸期の頃までは神功皇后は「卑弥呼」(ひみこ)であると記録され考えられていたらしい。 今では神功皇后と卑弥呼は別の存在であると見なされていて、即ち、卑弥呼は初代のヤマト王権の統治者であり、歴史的にも検証されているとしている。
当社は、越前国一宮として隆盛したが、南北朝時代には南朝に、戦国時代には朝倉氏に付いたことから社勢は一時衰退したという。 その後は江戸時代に領主の保護を受けて再興し、明治28年(1895年)、神宮号が宣下されて「氣比神宮」に改称し、官幣大社に列格したとしている。
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神功皇后は三韓を治め,摂政となって,自分の子誉田別皇子(ほむたわけのみこ,後の応神天皇)を皇太子とし、大和の国に都を造る(神功皇后摂政3年正月)。 これで神功皇后の政権は安泰となった。 国が治まると神功皇后は直ちに三韓の一つ・新羅との外交に精を出したのである。 新羅との外交記事の中に「神功皇后は,武内宿禰(たけしうちのすくね)に命じて,誉田別皇子と共に「角鹿(つぬが,現在の敦賀)の笥飯大神(けひのおおかみ)」を拝み祭らせる」とある。 日本書紀の叙述からすれば当時13歳くらいの誉田別皇子を,わざわざ大和の国から敦賀まで行かせて,「笥飯大神」(気比神宮)を拝ませたのであり、あたかも,祖先の墓参りでもするかのように。
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笥飯(気比)大神は元は御食津(みけつ)といい、稲荷同様の農耕神、漁労神であったのだが、第14代仲哀天皇と神功皇后が角鹿(敦賀)に来た時、仮宮を建て、これを笥飯宮(けひのみや・笥飯大神)として今の気比神宮になったとする。
笥飯とは、“食物を盛る”という意味合いがあり、地元民の農耕漁労の地主神であったが、神功皇后が朝鮮との関係に至り、海上交通の守護神の性格を持つようになり、更に、本来の海神(それも渡来系の)であったとみる可能性は残る。
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以上のことから氣比大神は、海人族としてヤマト王権への服従をしたことから、海の幸を献上したことから、食物の神霊を祀った「神」であり、叉、海人族を通して半島との交流が盛んにしたことで半島の「神」へとその性格を変えていったとする見ることもできる。 それに、この地方のことを「笥飯」(けひ)が変じて「気比」になったことは想像できるが、何時頃、どのように変じたかは更に検証が必要であろう・・?。
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