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琴平の本社・金毘羅宮からの各地への分祀
「金毘羅さん」は、筆者、幼少の頃より現在に至るまで縁の有る神社である・・!!、
金毘羅神社といえば全国各地に、その分社、支社が存在し、金毘羅さん(こんぴらさん)の名で全国の民衆に親しまれている社宮である。 そして、小生の生涯の中で金毘羅宮とは幼少の頃より現在に至るまで縁がある神社でもある。
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小生の田舎、故郷である福島県いわき市湯本には、由緒ある神社が2ヶ所ある。 日本でも古湯とされる湯本温泉の象徴的守護神である「温泉神社」と我が青年時代までの在住地である関船町に鎮座している「金毘羅神社」である。 この金毘羅宮は幼少の頃、歩いても数分の処にあり、この鎮守様の森でチャンバラごっこや度胸だめし(肝試し)をしたもんである。 縁日の1月10日(旧暦)は近郷近在の人々がご利益参拝のため、大勢訪れ、参道、側道には縁起物や駄菓子屋のテント、見世物小屋が立ち並び、押すな押すなの大盛況である。我が家でも「御接待」と称して親類、縁者、知人を招いて馳走を振舞い、大賑わいで小生ら子供たちは訪問者から「おこずかい」をもらって縁日へと出かけたものであった。
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当地の「金毘羅神社」は600年の歴史を持つという。 江戸時代に入ると近海で海難事故が多数発生し、その為村人が讃岐の金毘羅神社に出向き安全祈願をした所、たちまち事故が起こらなくなったという、その為、新たに金毘羅権現を当地に勧請し社殿を造営したといわれる。金毘羅大権現宮例大祭の1月10日は、いわき市一円、県内、宮古、気仙沼、房総、新潟県など各地から十数万人という大勢の参拝者で賑わう。神社境内をはじめ沿道には約500店舗の露店が並ぶ。
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次に、現在厚木市内に在住であるが、其の神奈川県厚木市鳶尾の団地後背部にある鳶尾山系、標高250~300mの丘陵地の山頂に「金毘羅神社」が鎮座している。 こちらの社宮は昨今、風塵の中に忘れ去れ。社殿はトタン屋根の古びた木造で物置のような存在にも成り果てていた、しかし近年、氏子や有志達によった綺麗に建て替えられた。 筆者は今でも週に何回か鳶尾山系へのトレーニング・ウオークを行っているが、この際には必ずこの社を通り、参拝をすることにしている。
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元より、江戸期往年の山頂の金毘羅宮は立派な本殿を有し、1月10日、5月10日の縁日には近在の氏子で大賑わいであったと言う。 特に、鳶尾地区(中荻野地区)は矢名街道(相模原-大磯線と甲州街道に通ずる津久井街道、現、国道412号線)と大山道(現、の八王子や相模原方面)の交差地域に属し、「大山参り」の通行客と合わせて鳶尾山の金毘羅宮を参拝したともいわれ大勢で始終賑わってたという。
蛇足ながら「丹沢大山」は神奈川県の屋根、丹沢山塊の東南の一角に聳える標高1251mの山で、古くから雨乞いの信仰対象として崇められた。 中腹ならびに山頂には五穀豊穣、商売繁盛の神様として広く庶民の信仰を集めた大山・阿夫利神社がある。 現在でも四季を通じて参詣者が耐えないが特に、江戸落語に「大山参り」という話しもあり、当時の大山参詣と賑わいぶりは有名である。
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現在、鳶尾山の金毘羅宮の新装なった社殿の正面には縁起・由緒が以下のように書かれてある。
「金毘羅子世羅天由来記」
『鳶尾山・金毘羅社は慶安三年(江戸初期・1650年)養徳寺・心外悦和尚の建立によるものである。 この時代、この地域は伝染病が猛威を奮い、一村感染すれば施すすべもなくバタバタと倒れ逝くだけであり、止む無く病人を山に捨てざるをえなかったのである。 これを深く憂えた心外悦和尚は鳶尾山頂に登り、連日連夜病魔を除くため祈願す。 一月九日、この日、天地がピリピリと脈動すること数回、夜になって、山頂に入りて御座松の下に到り、尚、祈願臥座すところ、神が送る響きで天地振動し、深く経を詠すれば、新月織々として星光天に満ち、連山寂々が急に一陣の微風萌楓として幽松の梢を吹く。 頭を上げて樹上を見れば老翁現われ「吾は天竺王舎城の守護神・金刀比羅羅天なり、そなたの衆生を思う厚き心に感じて、永くこの地にあって衆生済度の為に尽くそう」言うや、又連山鳴動し、かつ然と眼が覚めれば驚くべし「大宝積経・金刀比羅授受・記本一巻」が置かれてあった。 翌十日は総本家讃岐の金刀比羅宮の開祖と同じであった。 心外悦和尚の不借身命の活動が一脈の光明と生気を与え、やがて病苦の悲泣は快癒の感謝に到る。 ここは御座松を仰ぐ金刀比羅の社と古松は近郷の人達が感謝して築いた記念の標である。
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享保十年 吉宗公・病気快癒の為 再興
文化十一年 家斉公・厄年の為 再興
大祭 一月十日 五月十日 荻野地区中荻野・養徳寺 世話人 』
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