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JR神戸駅から徒歩で約3分、大倉山駅およびハーバーランド駅から約5分という好立地に「湊川神社」が鎮座している。 国道28号線に面した正面の立派な神門があり、一礼をして境内へと入ります。 広々とした石畳の参道を進みますが、車椅子やベビーカー等のバリアフリーにも配慮されております。 周囲をビルや大通りに囲まれながらも、境内に入ると静寂に包まれる「都会のオアシス」となっています。
参道を進んで右手にある摂社である楠本稲荷神社、赤い鳥居と提灯が並び、湊川神社よりも古い歴史を持つと伝えられています。
参道の正面に鎮座する荘厳な社殿(本殿・拝殿)、此方で恭しく拝礼をします。 配祀として息子の楠木正行公(まさつら・小楠公)、それに湊川の合戦で命を落とした武将たち一族がまつられている。 気が付くと拝殿の天井には、全国の著名画家から奉納されたという美しい天井画が飾られています。 境内には楠木正成着用の武具等を収める宝物殿や大楠公御墓所、日本最古とされるオリーブの木なども残されています。
湊川神社は鎌倉幕府打倒の為に尽力し、その後足利尊氏の軍と奮戦した「楠木正成」公を御祭神としており、楠公(大楠公)さんの愛称で親しまれている。 智・仁・勇の三徳を備え聖人と仰がれた南北朝時代の名将、楠木正成公をお祀りし、神戸っ子には楠公・なんこうさんと親しまれています。
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皇将・楠木正成はこの地で散った 、
源平の戦いで「一の谷合戦」が行われたすぐ近辺に位置する神戸・兵庫区「湊川」は、その後も軍事上の拠点ともなり、 150年後の南北朝時代において最後の決戦が行なわれた所でもある。
南朝・後醍醐天皇の「建武の中興」で天皇を支えた楠木正成が、反旗をひるがえし京都奪回を目指す北朝軍・足利尊氏との最後の決戦に臨むため、京都から兵庫に下る。
途中、「桜井」(京・大阪の中間地、大阪府三島郡島本町桜井)の地まで同行していた長子・正行には、この地で別れて故郷(河内国石川郡赤坂村:現大阪府南河内郡千早赤阪村)へ帰るように命じる。
正行を呼び「この世でお前の顔を見るのも最後だ。自分が死ねば尊氏の天下になろうが、命を惜しんで長年にわたる天皇への忠義を捨ててはならない」と諭す。 別れた正成は、味方わずか七百余の勢力で、迫り来る数万の足利尊氏軍を湊川の地で迎え討ち、激戦の末に破れ華と散る。(湊川の戦い・1336年,九州から東上した足利尊氏の軍が兵庫・湊川で新田義貞・楠木正成らを破った戦い)
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後に正行は、湊川の戦いで父の正成が戦死したことを知り、覚悟していたこととはいえ父・正成の首級が届き、ショックのあまり自刃しようとしたが母に諭されてる。 その後は父の遺言どおり南朝方として戦い、1348年に行われた「四條畷の戦い」(河内・四條縄手)において敗北し、自刃している。
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現在の神戸市中央区・神戸駅北口正面には、楠木正成・正季兄弟終焉の地として正成ら楠木一族を祭神に祀った「湊川神社」があり、徳川光圀(水戸黄門・・?)自筆の「嗚呼忠臣楠子之墓」の忠魂碑などが存在する。
楠木正成の命日は、1336年の5月25日であり。 地元・湊川神社では明治5年、殉節された5月25日に併せるように鎮座した。 祭礼は氏子等が私祭としての「楠公祭」が行われ、大楠公を大将とする騎馬武者行列などが執り行われる。(官祭は新暦7月12日が例祭日)
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鎌倉時代以降は武家政権が続いたが、明治期になって再び朝廷政治へと戻ることになる。 明治政府は、皇家の最大の忠臣者・英雄として、湊川の戦いで戦死した「楠木正成」 を祭神とした 「湊川神社」(神戸駅前・兵庫県神戸市中央区多聞通)を創建しているが、東京駅前の皇居外苑には出陣する姿の正成の銅像が建立され、天皇に忠義を尽くした義の男として今も皇居の守りについている。
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