読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

旅の記録と記憶、

日本国内、東西南北、処々方々を巡る、

平成日本紀行(176) 萩 「吉田松陰」(5)

山口県


 平成日本紀行(176) 萩 「吉田松陰」(5)  ,





 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/83/Yoshida_Shoin2.jpg/250px-Yoshida_Shoin2.jpg
吉田松陰像(山口県文書館蔵)







旅の記録;「日本一周」へリンクします

『 身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 
               留め置かまし 大和魂
 』  松蔭

松蔭は、萩の獄舎で囚われの身となっているが・・、
野山獄」は現在の北古萩町、萩城址とJR山陰線の東萩駅を結ぶ主要道路の中間地・本行寺付近に在って、今も「獄舎跡」として記念碑などとともに残されている。 

野山獄の向い側には、「岩倉獄」という獄舎もあって同様に獄舎跡があり、隣同士向かい合った二つの獄舎址を目にすることが出来るという。

野山獄・岩倉獄の発祥のいきさつは、江戸・天保年間初期、岩倉という藩士が隣家の藩士である野山宅に酔って押し入り、家族を刀で殺傷する事件が起こった。 
この事件で藩士・岩倉は死罪、一方、切り込まれた藩士・野山家も取潰しになってしまい、それ以降この両家の屋敷は萩藩の獄舎になったという。 
野山獄は上牢と呼ばれ、藩士、武士の身分の者が入獄する、一方、岩倉獄は下牢と呼ばれ、庶民が入獄するものとされていた。 


さて、松蔭とともに密航を計画し、行動をともにした「金子重輔」のことであるが、彼はこの岩倉獄で結核のため病死している、松蔭より1つ年下の享年25歳であった。

金子は松蔭と違って足軽の出であった。 そのため江戸伝馬町の獄でも、“ごろつき”などを主として収容する下級階層の牢獄にいた。 
環境はきわめて劣悪で、屈強な金子もさすがにこの環境には勝てず次第に心身が蝕まれ、労咳結核)におちいった。 
しかも、江戸から萩への護送は冬の最中に行はれ、寒風の吹きすさぶ中、更に体調は悪化していった。 

松蔭は盛んに金子に気配りをしたが、獄舎の違いもあって充分にその意思は伝わらず、金子は岩倉獄の獄舎で静かに息を引きとったという。
金子は松蔭に、「もう私は永くなく、日本の行く末を見ることは適わんでしょう。だが、先生と渡海を決めた時から命は捨てておりました。今生きているのは“おまけ”のようなものです。後は一目、父母の顔さえ見れれば、全て良しとします。」 

松蔭は間際の金子に、釈迦の前世、現世、来世の教えを説いた。
現世は一瞬である、前世は一瞬の前の長い過去であり、来世は一瞬の後の長い未来である。 現世の永さなど、どれほどのものか・・!、この道理を理解せず、短い苦に耐えかねて永遠の喜びを失う者のいかに多いことか。 君は幸せなり・・!!」、これが師弟の最後の便りとなった。

獄吏のはからいで、金子は父母と「末期の再会」を果たす事ができ、体力の消耗は激しかったが意識は明瞭であったという。


幕末の安政年間、この時期、井伊直弼大老に就任、開国思想を持つ大老は攘夷派に対して弾圧を始める。 
所謂、「安政の大獄」が進行してゆくのである。 

大老の懐刀・長野主膳は、松蔭の動きをつぶさに観察している。 
松陰は5年前、渡海(未遂)という、死罪に値する国禁違反をおかしたが、「実家で蟄居」という寛刑ですんでいる。 にも拘わらず過激な尊皇思想を説き、御政道に異見をさしはさんでいるとして「吉田松陰は悪謀の働き抜群」と直弼に報告している。 

そして、井伊政権は、「吉田松陰、更に御吟味の筋これあり」として、遂に吉田松陰の江戸召喚を決定した。


野山獄にいる松陰に、「江戸移送」の報を最初にもたらしたのは兄・杉梅太郎だった。 
この時、松蔭は「拙者このたび、江戸に移送されるとのことで、すでに覚悟を決めております。たとえ一命を捨てても国家のためになるのならば本望というもの。ただ、父上と母上には不孝の限りですが、」と、したため併せて、死を予知していた松蔭は臆することなく遺書を書き始め、それは翌日の暮れにまでおよんだという。


冒頭に・・、

『 身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 
              留め置かまし 大和魂
 』

の歌を置き、全編を「留魂録」と命名した。


安政6(1859)年5月14日、松陰を乗せた篭は萩・松本村の杉家を出立した。
萩城から南へ約5キロ、山道に1本の大きな松の木が立っていた。 

他国に向かう旅人はここで見えなくなる萩の景色と名残を惜しみ、帰国する人は長い旅の終わりを知る。 
いつしかこの木は「涙松」と呼ばれるようになったという。 

松陰を乗せた篭がその前を通りすぎようとしたとき、松陰は護送役に声をかけた。「これが萩の見納めじゃ。ちょっと外を見せてはくれまいか」 罪人用の駕籠であるが、護送官は承知して戸を開けた。 
「忝(かたじけ)ない、これで大安心」、そして萩の城下町が遠くなっていった。


6月25日、長州藩江戸藩邸に到着している。 直後から尋問がはじまる。
尋問中松蔭は、「私には死罪に値する罪が二つあります。死罪の一つは、藩主・毛利敬親に勤皇策を説こうとしたこと、もう一つは同志とともに京都に上り、朝廷を惑乱していたご老中・間部詮勝(あきかつ)を詰(なじ)ろうとしたこと」、

「しめた!」と尋問者たちは思惑を抱きながら、快哉(かいさい・痛快なこと)を心中で叫んだ。 
そして、「そちには国を思う真心がある。しかし、大官であるご老中を斬ろうとした。大胆にもほどがある、覚悟しろ・・、吟味中、伝馬町獄入りを申し付ける・・!」。

暫くして遂に松蔭に「」が下った。 
不届きにつき打首申し付ける・・!」。

安政6(1859)年10月27日、この日の正午ごろ吉田松陰は江戸・伝馬町獄の刑場で打ち首に処せられた。  
享年・若干満29歳であった。



松陰刑死」の報を聞いたとき高杉晋作は号泣し、「仇討ち」を誓った。 
その後、師・松陰と同じように「」(たけだけしさ)を発し続けてきた。

元治元年(1864年)、松陰が火をつけた尊皇攘夷の炎は、ここで最初の頂点に達しようとしていた。 
藩は、いくつかの小変を経て「幕府と対決してでも京都に上り、尊皇攘夷を実現すべし」という「暴発論」が長州藩の大勢をしめるようになっていった。 

京では新撰組が三条の池田屋を急襲し、「武装蜂起を決行しようとした」として斬り殺された尊皇派志士の中に、松陰のまな弟子、吉田稔麿や親友だった宮部鼎蔵がいた。 

この事件が引き金となり、長州藩は暴発する。 
翌7月、長州軍は三方から京に攻め上がったが、幕府、薩摩、会津の連合軍に撃退される。
所謂、「蛤御門の変」である。

この時から彼らは一つになり、特に晋作は、身分制度を打破した「奇兵隊」を創生し、旧体制に挑んだ。 
そしてその後、その推進力によって吉田松陰が夢見た新しい政治体制が確立され、「新しい日本」が誕生するのである。  

松陰の一生は、豊作だった


次回、「松蔭と松下村塾

  
「日本の世界遺産の旅の記録」へリンクします





【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
NatenaBlog(ハテナ・ブログ)    GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ    seesaaブログ   FC2 H・P   gooブログ   忍者ブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)  日本温泉紀行 

【日本の世界遺産紀行】   北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観   奥州・平泉   大日光紀行と世界遺産の2社1寺群   

東北紀行2010(内陸部)    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002   日光讃歌



【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   南アルプス・鳳凰三山   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   日光の山々   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「山旅の記」   「山の歌」   「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」   「日光の自然」