四国の旅・愛媛県: 伊予新居浜 「産業遺産・別子銅山跡」
四国の旅・愛媛県: 伊予新居浜 「産業遺産・別子銅山跡」 、
資料館・マイントピア別子
新居浜市の北側山系は別子(べっし)といって、小生にとって懐かしい名称である。
若い頃、窯業関係(金属精錬のための炉の設計)の仕事に従事していて、この住友別子鉱山や瀬戸内・直島の住友鉱山に関連した銅精錬の溶解・精製炉の設計作業をしていた。
ここ別子は、太古の昔から、とてつもなく巨大な鉱脈が眠っていた。
人跡未踏の赤石山系の、その名も銅山峰(1291m)・南斜面(現、別子山村=新居浜市)で、1690年(元禄3)、銅鉱露頭が発見されたという。(現、遺跡の「歓喜坑」が第一発見地といわれる)
大坂の豪商・泉屋、住友吉左衛門友芳により巨額な資本を投下して、この地域を「別子銅山」として開発し、備中(岡山県)の吉岡銅山、出羽(山形県)の幸生銅山(日本三大銅鉱山)に続いて、わが国では三番目の開鉱であった。
開抗からわずか8年の元禄11年には、年間産銅量1500トン以上を記録するなど、当時世界最高の産銅量を誇る銅山であった。
その後、明治26年には日本初の山岳鉄道(現在、松山で記念に走っている・坊ちゃん列車と同形といわれる)を導入、産銅量は一挙に5000トンに達し、別子の山中には12000人もの鉱山関係者が住んだと言われている。
坑道の総延長約700km、採鉱場所は海面下1000mにも達したという。
明治以降は、西洋の近代的採鉱技術その他を導入して採掘を累増させ、外国貿易の重要な輸出品としてわが国の経済を支え、産業の近代化、事業の多角化に貢献した。
この銅の生産量は、栃木県の足尾銅山に次いで日本で2番目に多いという。「別子銅山」は、住友巨大財閥の原点・源流とも言われ、わが国唯一の民間鉱山としても、その役割を果たした功績は大きいという。
昭和48年、多種要因にて別子銅山は閉鎖するに至り、栄光の歴史に幕を閉じた。
新居浜市から別子山村に至る、標高1000m大山岳地に残る広大な銅山の多くの遺跡は、今ゆっくりと自然に還りつつある。
煉瓦造りの巨大な貯鉱庫や建築物、索道基地跡などの遺構景観は、別子銅山を「住友のインカ帝国」とか「四国のマチュピチュ」(マチュピチュ:ペルー南部にあるインカ帝国の都市遺跡。
海抜2400メートルの高原に位置し、石造の神殿・宮殿・水路などが残されている、古代の空中都市とも言われる。世界遺産)と形容し、紹介もされている。
新居浜のすぐ北側、別子銅山跡地に、「マイントピア別子」という鉱山の歴史や当時の生活風景を紹介する歴史資料館や鉱山鉄道、貯鉱庫跡などの鉱山遺跡がある。
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