平成日本紀行(189) 名和 「名和長年」
名和一族を祀る「名和神社」・本殿 (Wik)
名和町に入ると山陰線・名和駅そして駅のすぐ近くに名和神社が祭ってあり、すぐ南北朝の武将・名和長年(なわながとし)のことを思い出した。
鳥取県の名和町、人口7500人ほどの普通の田舎町の感じで、きっと過疎化が進んでいる町でもあろうと想像してしまう。
訪れる人も少なそうで、これといった観光もないように見受けられる。
しかも平成17年の合併のため名和町という名前自体も無くなってしまったようで、現在は大山町と称している。
だがそんな名和町から、その昔一人の英雄が出た。
その名は「名和長年」という。
太平記の時代に後醍醐天皇を助け最後まで付き従い、戦前は「建武の忠臣」として称えられたが、戦後は教育の方針が変わり世間から忘れられてしまった人物だという。
鎌倉末期、北条執権の衰退を期に、都では後醍醐天皇らが中心となって幕府との対立を鮮明にし、天皇親政による日本の全国支配を目指す。
「正中の変」(正中元年・1324年)と言われるもので、更には、元弘の変(元弘元年・1331年)という鎌倉幕府討幕運動が起きるが、何れも幕府側に露見してしまい、後醍醐天皇は隠岐への配流となってしまう。
因みに、過去の鎌倉初期の「承久の乱」の折には首謀者・後鳥羽上皇は、鎌倉側との一戦に敗れて隠岐の島へ配流されている。
そして、その後はすっかり意気消沈し世捨て人として失意の余生を送ったとされる。
ところが、こちら後醍醐帝は不屈の闘志を持ち、配流程度では全く挫けなかった。
状況下、後醍醐帝は隠岐の脱出に成功し、伯耆の豪商・名和氏に迎えられて船上山に拠り、討幕の綸旨を各地に発して鎌倉幕府と対決する姿勢を顕著にする。
そして新田義貞、足利尊氏らの関東・鎌倉での蜂起によって討幕は遂に成功を見ることになり、150年間続いた幕府は滅亡する。
長年は戦功を認められ、幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された「建武の新政」において、河内国の豪族・楠木正成らとともに天皇近侍の武士となり、記録所や武者所など朝廷の役人を務める。
しかし、足利尊氏が後醍醐親政側から離反すると、長年は楠木正成、新田義貞らと共に宮方として尊氏と戦うが、1336年(/建武3年)の「湊川の戦い」で京都に入った尊氏らと激戦の末に敗れ、三条猪隈(京都市三条猪隈)で討死する。
長年は伯耆(キ)守であったことから、楠木(キ)正成、結城(キ)親光、千種(クサ)忠顕と合わせて、後醍醐天皇近侍として「三木一草」の将と称された。
「名和神社」は、鄙びた山陰線の名和駅より東南方向に、広大な境内を持つ社宮で、鳥取県内でも最大級の規模を誇るという。
それにしても「宮の壮大」さは、南北朝時代の名だたる名将・楠木、新田、足利氏や果ては天皇家をも凌ぐほどのであろう・・?。
建武の忠臣と言われる「名和長年」公ではあるが、所詮、名将である彼らの名を借りれば名和氏は脇役であり、自身は、たかが天皇の側近の身であった。
まして、後醍醐天皇は一時期、天皇親政の執政を行うが、直ちに足利氏らの政争に敗れてしまう。
そして天皇自身の評判は権謀術策にたけた専制君主、あるいは公家達の多くの者達にもその無能ぶりを批判され権威は全く失墜して、更に時代は再び武士の世になっていくのである。
名和神社は主祭神・名和長年と一族四十二名を祀り、現在の社殿は昭和十年に完成したもので、建築界の重鎮・伊藤忠太(近代における建築界ののリーダー)指導の下、明治神宮を造営した「角南隆」(すなみ・たかし、戦中・戦後の神社建築会の権威)が手がけたという。
本殿からは日本海が望まれ、海を越えた一直線上に後醍醐天皇配流された隠岐が望まれる。
境内は元々、旧名和公の在所で、米倉があった所とされている。
名和町は2005年3月、大山町、中山町が新設合併し新大山町となっている。
次回は、「伯耆大山」